2018年7月
旬菜市場から太陽光発電!
朝からこんな美味しそうなつきたてのお餅が入ったぜんざいを頂きました!
こんな大きいつきたて純もちが入って、たったの100円!!
「しまった!朝ごはん食べずに来ればよかった!」
でも、ここのお餅が美味しいのはよく知っているので、もちろんしっかり頂きました。
小豆も甘過ぎない、私好みのとても美味しいぜんざいでした(^-^)
心の込もった手作りです。
また、ここのよもぎ餅へ行かれたら絶対試してみて下さい! 絶品です!!
「ここどこ!?」
そう!ここは左京区大原の駅すぐ前にあります里の駅大原です。
本日は朝一で地元のお漬物や乾物、豆腐、ゆば色々な食材が並んでいました。
減農薬、無農薬にこだわった美味しい野菜やお米、そして全て手作りの加工食品と、私の大のお気に入りのお店ですがちょと遠いのが難点です・・・。
本日は久しぶりの訪問です!
旬菜市場は朝9時OPENですが、時間前から人が並んでいます。
いつも私が行く時間(13時か14時頃)には、ほとんど売り切れ状態で、本日朝から来てみて「これじゃ売り切れるわぁ~」と納得でした。
この方が里の駅の社長様です!
社長職をされながらお米農家をしておられます。
株主様のほとんどが農家さんです!
これまたお米が美味しい!
ですが最近ダイエットのためお米、粉物抜いているのでお米好きの私には少し辛い!
里の駅様は、2年前に東西のお屋根と南側に太陽光発電して頂きました。
役員様、株主の方が規模の割りには大変多くおられる中過半数以上のほとんどの方の賛成を頂いて設置させて頂きました。
社長様筆頭に皆様、自然を愛し、環境に心を砕かれ、食材に対するこだわりがとても感じられました。
20年間の売電が終わった後は蓄電池を使用し店内の電気を賄います。
末長く太陽光発電がこの里の駅様のお役に立つものと信じております。
いつも新鮮で安心そして美味しい食材を有難うございます。
太陽光発電!最高に発電してるで!
4/25のブログに載せた時の、雪の積もっていた施主様のところに行ってきました!
施主様が『今、最高に発電してるで!』と、とても嬉しそうにおしゃって頂きました(^-^)
「ほんとですか!」と私はつい「関電からきてる振込額見せて下さい!」と言ってしまいましたが、施主様は気持ちよく見せて頂きました。
見せて頂いた私は「やったー!やっぱり5月の発電量は和歌山と変わらないですよ!」と!
やはり比較的気候の寒い所は、「温度が上がってくるとパネルの熱損失が少ないんだと確信しました。
施主様が『これでしばらくは貯金できるなぁー! でも梅雨が来るしなぁ・・・』とおっしゃっていたので、私は「どうか夜に降って朝に止むようにと祈ります」とお伝えしたら、施主様は呆れて笑っておられました・・・(^_^;)
この時ふっと思ったのですが、例えば太陽光発電にかけた同金額を株や今流行りのFXや外貨融資などに投資したとしたら、こんなに和やかに投資の先行きを考えられたのかなぁ・・・と。
確かに、太陽光発電に投資したからといって大きく利益に繋がるとは到底言えません。
ですが損をするかも知れないものかと言えばそれは違うとはっきり言えます。
いつかは掛けたものは取り戻すことができると言えますし、その先は少しでもプラスになるのは間違いないといえます。
ただ設置条件によって10年で取り戻す施主様もあれば、15年かかる施主様もおられるということなのです。
我々の仕事はそこを出来るだけ正確にシュミレーションをし、10年で取り戻したいと言われても15年かかるものは15年かかります!と、はっきりと伝えて納得して頂いてからスタートして頂くことがとても大切だとしみじみと感じます。
株などに投資しますと確かに掛けた金額が倍になるということもありますが、0になったりマイナスになることもありますよね!
こんな風にのんびりした気持ちにはなれないのではと思います。
『まあ 15年経ったら5年間は丸々入ってくるし!』とニコっと私の顔を見られて、すかさず『15年も生きてへんわ』と笑いながらおっしゃる60代後半の施主様。
何をおっしゃいますか!
間違いなく生きてらっしゃいます!!
これからは死ぬに死ねない時代がやってきます。
生きていて頂かないと困ります。
「15年後、私は杖をついてでも太陽光発電されて良かったですねと尋ねてきますから」と言ったら大笑いされました。
こんな風にいつも言いたい事を言わせて頂き、いつもいつも美味しいお茶とお菓子を頂き、楽しいひと時を頂きいつも笑顔で迎えて頂き、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
ご主人様、奥様、ご子息様ご家族様に心からお礼を申し上げます。
お客様との会話は色々なことを勉強させて頂ける気付かせて頂ける宝箱のようなものだと感じました。
ご先祖様からの土地を太陽光発電で有効活用!
本日から工事スタートしました!
50Kwの太陽光発電システムです。
正面の林が東で、道路脇の土地、地目は田んぼでした。
農地転用からの手続きでやっと許可がおり、南向きに320パナHIT175枚設置します。
出力は49Kwでこの夏の発電が楽しみになります。
南側にある少しの樹木を伐採するだけで環境抜群!
農業委員会の方も『よくうまいこと道路ぎわであんな条件のちょうどいいところで良かったですね。農地を何十年も荒地で放置するよりずっといいかも知れませんね』と言って頂きました。
施主様も、『誰も農業できないし最近は土地の手入れも出来ずにいたら小動物だけではなくて鹿とかの大きな動物まで降りてきて』と嘆いておられました。
こういう山の中でも太陽光発電に向いている場所もあります。
道路をもう少し南に走ると道路両サイドが林に囲まれてきてちょっと太陽光発電には厳しい場所も当然あるのですが、同じ地域でもその場所々によって条件がコロッと変化します。
少し、過積載で設計もこの土地に最適なものにしております。
永きにわたって必ず喜んで頂けると自負しております!!
本当に夏の発電量が楽しみです。
冬はちょっとごめんなさい!(笑)
ご先祖様から土地を受け継がれて手放したくはないけど農業はできないし、そのまま放置も気になるし・・・と悩んでおられる方がおられましたら、どうか中野までご相談下さいませ。
お待ちしております!
宮川美智子様のご紹介 ~日本クリスチャンペンクラブあかし新書から出版『大いなる出会い』への投稿文~
宮川美智子様のご紹介
前回の最後に書かせて頂きました、宮川美智子様が2002年に日本クリスチャンペンクラブあかし新書から出版された『大いなる出会い』に投稿された文章を宮川美智子様からご承諾頂いたうえで、皆様にご紹介させて頂きます。
~主たる神との出会い~
宮川 美智子
幼い頃の私は、毎朝仏壇の前で読経をする父の後ろに座らされ、仏様に手を合わせるのが日課であった。父は神戸で貿易商を営んでいたので、家内安全、特に商売繁盛を祈っていた。台所には火の神のお札があり、神社の前では最敬礼をし、神仏混淆しているのに、父はお寺を殊の外大切に思う仏教信者であった。そんな訳で、自分の家から耶蘇教信者が出るという事は恥であると思っていた。
私はこのような父のもとで育った。近所の人が教会の日曜学校誘ってくれても、行かせてもらえず、その代わりにお寺に行かされた。私はお寺の日曜学校で見た地獄絵の恐ろしかった事を、今でも忘れることができない。子供心に二度とこんな絵を見たくないと思った。けれども父の信仰については、何の疑問も持たなかった。
中学への進学を迎えた頃、神戸女学院出身者の母方の叔母が、ぜひ神戸女学院に進学させるよう母に勧めた。当時、叔母は満州に住んでいたのだが、満州に迄願書取りよせた上、手紙をつけて母に送ってきた。母は行かせたく思ったらしいが、父は「耶蘇教の学校になぞ行かなくていい」と反対した。
私は神戸女学院のあの美しいキャンパスに魅せられたが、私たちの小学校からはなかなか合格しないという。父はその話を聞いて、私が余りうるさく願うので、願書を出す事は許してくれた。
父の意には反したが、合格通知が届いた時は本当にうれしかった。
この神戸女学院に入学を許されたことが、私の「主なる神」との出会いの始まりとなったのである。
入学当時は、戦争中であり爆撃機が飛来した。門戸厄神まで阪急電車に乗る事も禁じられ、西宮北口より門戸迄の遠い道程を、毎日徒歩通学しなければならなかったが、中学生活は楽しかった。阪神間に大空襲があった時、同じ小学校から入学した友と二人で、線路伝いに阪神沿線の魚崎まで歩いて帰った。行く手を何度も炎で遮られ、爆弾でえぐられた穴にも落ちた。血を流し三角巾で傷をふさぐ怪我人、爆弾で死んだ牛や馬の死体の轉がる中を、どうして抜けてきたかわからず、ただ神戸方面を目指して、友達と手を握りしめて歩いて帰ってきた。神戸方面を見ると、一面煙と炎に包まれ、家は皆燃えているかのように見えた。しかし、私の家の前には大きな爆弾が落ちていたが、不発弾だった為、被害はなく、友達の家も幸い無事だった。ただ深江の軍需工場に動員されていた姉が帰ってこず、私達の心配は高まっていった。夜が更けてから、姉がよれよれの姿になって帰ってきた。山に逃げようとする学徒の群に、機関銃掃射がなされたのだ。多くの友が亡くなったが、姉はかろうじて山の中に逃げ込めたという。人が人を殺すという事は、決してあったはならないと強く思った。一年後に終戦を迎えた。
女学院での生活は、喜びに満ちていた。だが、毎朝の礼拝、聖書の時間に学ぶ神は、父から聞いていた神や仏ではなかった。全宇宙を造り司る創造主なる神であった。又その神は、愛なるが故に独り子イエスをこの世に降ろし給うて、全人類の救済をなし給うた事を知ったのである。父は「私の信じる仏の道こそが真だ」といい、聖書では、イエスが「私は道なり、真なり」いわれる。いったい何が真なのか。そして私は何を信じればいいのかわからなくなり、これを求めていく事が私の課題となった。この課題は、他に頼って解ける事ではなく、私自身が探し求めていかなくてはならない課題であった。学校から勧められる儘に、教会にも出席した。しかし神学ばかり説かれる教会であったり、グループ活動のような集いであったり、私の求めている真の信仰、聖霊の働き給う教会とは違うように思えた。
私は教会に行くのを止めて、手あたり次第に、本を読み漁った。しかし何も分からなかった。
やがて高校に進み、青年期の反抗とも重なって、毎日のように父と激しく議論するようになった。二人の信仰は噛み合わず、私自身も信仰の確信は持てずにいた。次第に私は生きる目的が分からなくなり、何が心理なのかも分からなかった。それさえわかれば、何もかもが明るくなるだろうにと思えた。聖書の言葉を、その儘「はい」と信じられない自分がいた。トマス以上に疑い深い私がいた。そして私は生きる目的が分からなければ、結婚もできないと思った。何故なら、自分がこの世に生きている意味が不明なのに、どうして子供に生きる目的と意味と喜びを伝える事ができるだろうかと考えたからである。求道の日は続いた。
そんなある日、私は開拓伝道途上にある芦屋浜教会の聖日礼拝に誘われた。そこは、打出の浜辺にある一軒の信者のお宅の応接室であった。婦人牧師の長谷川初音先生が説教され、十名程の人たちが集まっていた。今まで訪れた教会とは全く違った雰囲気があった。言葉に表せない光を感じた。後にマザー・テレサの「死を待つ人のホーム」には窓がないのに、奉仕する人たちの祈りと愛の行為で柔らかい光が射していると聞いたことがあるが、多分それも上よりの光が射していたのであろう。私は魅きつけられるように、芦屋浜京j会の礼拝に出席した。聖書の言葉が、信者の方々の日々の生活に生きて働いているのを感じた。神学ではなく、愛によって働く信仰を感じさせられた。私は会堂の上に立つ十字架から絶えず呼ばれているように感じ、飢えて渇いた魂に、御言葉が沁み通ってきた。私の心は詩篇の作者ダビデと同じ思いであった。
詩篇一三九篇
「主よ、あなたはわたしを探り、
わたしをしりつくされました。
………
わたしはどこへ行って、
あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、
あなたのみ前をのがれましょうか。」
私は、いつも十字架上の主から、じっと見つめられているようだった。何処に行っても何処に隠れても、主の眼を感じた。私は生き給う神の眼を恐れた。
教会には足繁く通った。ある早天祈祷会の時、一人の姉妹が「川鉄の土地を教会にわけて頂けますように」と祈られた。私は、はっとした。川鉄は私の親友の父上が専務として在職しておられ、秘書課には友人が勤務している。その方達に頼めば簡単に分けて貰えるのではないか。私がこの教会に導かれたのは、この御用があった為ではないかと思い始めた。そしてこの為に真剣に祈った。事はそう簡単には運ばなかったが、不思議な神の導きという他ない偶然が重なり、遂に祈りは聞かれた。川鉄の土地は教会の土地となり、現在の芦屋浜教会が建っている。私は主がこの小さき者を用いて、主の教会建設の御用の一端をさせて下さったことに、大いに感激した。そして益々、神が生きて現在に働き給うという事を実感させられたのである。
二十歳の時、初音牧師より受洗。献身者奨励礼拝の説教を聞いて献身を決意し、神学校へ進むことを願った。しかし父は反対した。その頃、大阪教会に通っていた女学院時代の友人が、私に看護師になろうと勧めた。自分も行くから一緒に行こうという。阪大の看護学校に入学できれば、寮生活だし生活費も支給してくれるという。私は父から神学校進学に反対され、教会に行くことも良い顔をされなかったので、信仰の自由と経済的独立ができればと乗り気になった。看護婦という仕事を通して、主に仕えることができれば幸せではないか。そうすれば、「この道の他に行く道なし」と信じた主への信仰を貫く事ができる。
私は早速、女学院の担任だった先生のお宅に内申書をお願いに行った。しかし折り悪しく先生はお留守で、わ宅で待たせて頂いていたが夜遅く帰ってこられた。先生のお宅には、当時電話はなく、交通の便も悪かった。余り遅くなったので「泊って行きなさい」と言われる儘に、何の考えもなしに泊めて頂いた。
翌朝五時頃、先生の家のベルが鳴り、私の母が訪ねてきた。一晩中歩いて探していたそうだ。私が無事にいるのをみて涙を流した。この時程、母の愛の凄さを感じた事はなかった。先生のお宅を知らなかったのに、よく探しあてられたものだと感心した。
私の家では、今迄連絡なしに外泊する事など一度もした事のない娘が、電話もかけずに帰宅しないので、両親は心配の余り一睡もしなかったようだ。母は、父が余りに頑固に私の行きたい道に反対したから家出したのだと、激しく父を非難したらしい。
家に帰って両親に謝った。どんなに叱られるかと思っていたのに、父は何も言わなかった。そして一言、「お和えの好きなようにしなさい。学費は出してあげるから心配せずに」と言ってくれた。私は父に盾ついて家出しようとしたのではなく、たまたま先生が留守だった事、電話がなく交通の便がなかった事などが重なって、家出したと思わせてしまったのであったが、この事件は結果的に良い方向へと導かれたのであった。
私は聖和の宗教教育科に進み、教会にも父に遠慮しないで行けるようになった。自宅でも応接室を占領し、近所の子供達を集めて教会学校を開く事さえ許してくれた。ソファーはぼろぼろになったが、父は黙っていた。この教会学校に来ていた子供達の事は忘れられない。成長した隣家の少年は、その後近くの教会に通い信者となっている。また両親がなく、朝夕新聞配達をしていた兄弟が来ていたが、中学生の兄はよく私に反抗した。その時の事を詠んだ歌がある。
三角の目を光らせてことごとく
反抗する子の肩を抱きおり
聖和を卒業して、関西学院大学神学部に三回生に編入。一年間ドイツ語に悩まされて漸く修了した頃、かつて女学院で英語の教師をしておられた宮川とも先生の一人息子、恒裕と結婚話が持ち上がった。私は関西学院大学で漸く一年を終えたばかりで、いずれ大学院へも進む積もりでいたので、中退して結婚するなど考えられなかった。しかし、「貴女が牧師になるのと、いま開拓伝道で単身苦闘している牧師を助けるのとでは、どちらが主の聖旨に叶うでしょうか」と、宮川とも先生に問いかけられた時、私は自分の能力を省み、何のとりえもなく、能力もない者が、牧師になる為に大学院へ進むより、苦闘している牧師の助け手として実践の場に出た方がいいのではないかと思うようになった。一九五八(昭三十三)年五月、恒裕と結婚して旭川に発った。
旭川では、既に恒裕が一年前より開拓伝道に遣わされ、募金を募り、旭川市郊外の春光町の旧屯田兵の家を購入、旭川星光伝道所を開き礼拝を守っていた。近所の子供達は、沢山来てくれたが、大人の礼拝出席者はなく淋しかった。翌年に長男が生まれたが、生まれてきても泣けず、胎便も出せない弱い子で、先天性心臓疾患のある事が分かった。幽門痙攣もあり、お乳もすぐに吐いてしまった。手術をしなくては命が危ないと言われたが、当時日本では心臓手術が出来なかったので、私達の頭の上には黒雲がたえず重くのしかかっていた。又、神戸育ちの私には気候が合わず、腰痛、神経痛、ヘルペス等に悩まされ、息子と二人して毎日のように病院通いをしなくてはならなかった。一九五九(昭三十四)年十二月、宮川は辞任を決意し、あとを七戸牧師に託して、私達は一時京都の宮川の母の家に住まわせてもらう事になった。母は姑を看病していたが、私達が旭川を発つ前日に姑を天に送り、告別式もすべて終えたところに私達が帰ってきたのであった。母は、自分の長男を三歳の可愛い盛りに天に送ったので、初孫をとても愛して下さった。この母とともに暮らす事によって、私は主の愛の深さ、高さ、清らかさを教えられた。主に在る母は、姑という言葉からくるイメージとは全く異なり、私の良き模範であり、指導者であり、相談相手であった。家庭が主によって一つとされる事の喜びを、この母によって味わされ、実の母より慕わしかった。家族が共に主に祈れること、これ以上のない幸せはないと教えられた。次々と与えられた子供達が、又次々と難しい病気になり生死を危ぶまれた時にも、いつも母が共に祈り支えて下さった。二十歳までは生きられないと言われていた長男も、不思議な神のお導きの中に、心臓手術に成功。今年四十三歳を迎えて、教会の御用に仕えている。
京都に帰ってきてから半年後に、私達は神戸にある教会に赴任した。伝統ある教会だったが牧師館がなく、三帖一間があるだけだった。その部屋に私と長男、やがて神戸で生まれた長女の三人が寝る事とし、夫は土足で歩いていた会堂裏の廊下に寝る有様だった。私の父が見かねて畳を寄贈してくれ、台所や廊下に畳を敷き、少し家らしくなった。けれど、トイレは庭のはるか向こうに公衆便所のような作りになっていて、夜中でもそこ迄歩いて行かなくてはならなかった。三人目の子供が生まれる時には、もう寝る場所がないので京都から通う事として母の家に移ったが、その後次々と子供が与えられ、六人となった。牧師館建設の話が出ても、多人数の牧師家庭の住める牧師館を建てる余裕はないと言われた。この言葉を聞いて、牧師館を建てる為には、少人数の家族の牧師がこられて、牧会をされた方がこの教会の為に益になるのではないかと私は考えるようになった。その頃夫は、腎臓が弱っているので休息が必要であると医師より言われていたが、その矢先、神戸の教会からの帰途、激しい腹痛でJR神戸駅で動けなくなった。医師の診察によると鼠蹊ヘルニアで、早く手術しなくてはならないという。そうすれば、暫く教会には通えなくなる。私は、六人目の娘が生まれて一年と少し経ったところなので、私も教会に出席できない。僕新館が建てられず、私達も教会に出席できないなら、辞任して早く良い先生にきて頂いた方が良いとの思いに至り、私が辞任を提案した。そして一九七五(昭五十)年七月、神戸の教会を辞任した。十五年間在職していたが、頂いた退職金が、当時の謝儀一カ月分の八万円であった。これでは、一カ月間は生活できてもあとが続かない。夫がとにかく健康をとり戻す迄は、私が働こうと決意した。しかし、四十歳を過ぎている上に、病気の夫と六人の子供を持つ主婦を何処も雇ってはくれなかった。問い合わせの電話の段階で、すべて断られたのである。
当時京都教区事務所におられた谷山牧師が、夫を見舞いに来て下さり、「これから先、どうして生活していかれるのですか?」と、とても心配して下さった。「今、職を探していますが、断られるばかりです。家政婦か病院の付添婦ならあるようなので、そちらに聞いてみようと思っています」と答えた。谷山牧師は、「家に病人と子供がいる上に、馴れない労働をすれば貴女の体がもちませんよ。伏見教会で萩原牧師が公文式の塾を開いておられますから、紹介しましょう」と言って下さった。私はすぐに伏見教会をお訪ねした。萩原牧師は、親切に公文式の事を教えて下さり、温かくもてなして下さったが、私には数学を指導し教えるという自信はなかった。とても無理な事のように思いつつ帰ってきた。
だが翌朝、新聞を見て驚いた。今迄公文式という言葉さえ知らず昨日伺ったばかりであったのに、朝日新聞の朝刊広告欄に、「公文式指導者募集」と大きな広告が出ているではないか。私には到底無理と思って帰ってきた翌日に、このような広告が出たという事は、主が私にこの道を進みなさいといわれているのかも知れないと思わせられた。説明会に出て心構えのないままテストを受けたが、合格通知を頂いた時は嬉しかった。私には一家の生活がかかっているので、一日でも早く教室を開く事ができるようにと研修に励んだ。やがて近所の人達、子供の友人の親達が応援して下さったので、生徒がどんどん増え、庭に教室を建てなくてはならない程の盛況となった。人は捨てても主は見捨てられない。職を断れ続けた事はむしろ幸せであった。
そんな中で母が寝たきりとなり、介護が必要となった。この時、喘息で長い間病む者の苦しみを味わってきた高校生の次男が、寝付いた母を病院に入れず、自宅で看病しようと言ってくれた。彼は学校の昼休みには自宅に帰って来て下の世話をするなど、最期まで母の看病に尽くしてくれ、どんなに母も喜び、又私も助けられた事か。末娘が大学に進む迄は僕kも大学には行かないと、私の教室の助手として働き、生計を支えてもくれた。そして末娘が同志社大学神学部に入学すると同時に、自分も関西大学神学部に入学し、今は牧師としての道を歩み始めている。夫は健康をとり戻し、無牧の教会や老人ホームの聖研、礼拝の御奉仕に仕えていたが、萩原牧師が天に召された後、伏見教会に招かれ、牧師として就任し現在に至っている。
六人の子供達は皆受洗の恵みに与かり、三人は主の御用に仕えている。困難な中に途方にくれる時に、主は必ず道を備え祈りに応えて下さった。
私は今から六年前に子宮癌のため、子宮も卵巣も総て摘出したが、昨年の秋、癌が再発。腹膜に癌が点在し、抗がん剤が効かない場合は余命一年、と主治医が長女と末娘に告げられた。末娘とは常に死について話し合っていたので、私にその事をすべて話してくれた。再発の場合は抗癌剤が効かない事が多いという。
一年の命と聞いて詠んだ短歌がある。
末の娘にわれの余命を告げましし
若き主治医にわれは感謝す
一年の命と聞いても驚かず
ゆだねるという心の安らぎ
秋の葉のこぼるるごとくわれもまた
こぼれて土の塵に帰らん
不思議な事に、効かないと言われていた抗癌剤が効き、医師に「滅多にない事だ」と言われて、この二月に退院。
癌マーカーの数値正常に下がりきて
主のみ癒しの恵みと知れり
二〇〇二年三月三十日、復活節礼拝に出席が許され、「真に主は活き給う、ハレルヤ」と、教会員と共に主を高らかに賛美し、心から祈りを捧げたのであった。
エネルギー問題への考え方と太陽光発電がくれた大切な出会い part2
それでは前回のお話の続きをさせて頂きます。
その当時、貧困を極めておられた宮川ご一家。
「このままでは生活ができない」と判断され、お母さまが毎日職を探されます。
ですが、子供が6人いらっしゃり介護老人がいらっしゃるとなると、どこも雇ってくれるところがありません。
どこかのおうちの家政婦さんに行こうとしていた時、牧師仲間の方が「そんな無理をしたら死んでしまう」と言われ、その当事京都では初めての公文教室を牧師さまがされており、そこを手伝う事になったそうです。
その牧師様も生活が大変だったようで色々苦労をされて公文教室を思いつかれたようです。
その牧師様から我が身のことのように思ってご協力いただいたのと、お母さまの元々持っておられる人柄や教養等を考えますと、生徒さんはどんどん増えたのではと容易に想像できるところです。
その後お母さまは公文教室で独立され、生徒さんも増えていったのですが人を雇うところまではいかず、次男さまが大學を断念され高校卒業後、お母さまと公文教室を運営されたようです。
公文教室を立ち上げられ13年後資金を貯められ関西大学神学部に入学、卒業され現在牧師様をされておられます。
公文教室をされている時に太陽光発電のことをお知りになり、原発を反対されていたこともあって一生懸命に働かれて100万円のお金を貯められ、伏見教会様に太陽光発電基金として寄付をされたようですが、当時既存の屋根にはつけられないと断られ実現しませんでした。
宮川家と私との出合いは、2015年電化の案内に次男の経範様が牧師をされている伏見教会様に行かせて頂いたのが最初でした。
その時は教会様の事情もあり電化も太陽光発電も実現しなかったのですが、太陽光発電のお話をした時に経範様は目を輝かせながら実現したい意思を聞かせてくださいました。
またお母さまは太陽熱温水器が出た時に、真っ先に導入され「全国全ての屋根に太陽光利用を行えばエネルギー問題は解決するのに!」が口癖でおられたようです。
また経範樣は「エネルギー問題は自然の中で解決すべきです。そうでなければ根本的解決にはならないと思う」とおっしゃっていました。
私も本当にそうだと思います。
太陽光発電は得になるのかならないのかで判断される方が全てとは申しませんが、経範樣は本当に人を愛し、自然を愛し心から環境のことを考えておられるというのをひしひしと感じました。
そして翌年、経範樣が私の名刺と資料を残しておられて、突然お電話を頂きました。
内容としては、ご実家の屋根が葺き替えないとダメだから屋根をやり替えるタイミング一緒に太陽光発電を導入したいというご要望でした。
こうしてご実家の屋根をリフォームし、太陽光発電と蓄電池システムを設置頂きました。
長年の希望がやっと叶えられたとお母様にも大変喜んで頂きました。
またお母様、経範樣は、贅沢もせず切り詰めて生活をされ貯えた預貯金でどこか安い土地があれば、少しでも自然エネルギーに協力したいとお話を頂きました。
私は、お話を聞いてどんなことがあってもお役に立ちたい!
「太陽光発電をしてよかった」と、「本当に良いものだ」と想って頂きたいの一心で最高の土地を探しだすところから始めました。
こうして最初にご紹介した和歌山県橋本市の土地を見つけ出したのです。
この土地は南の端にあり三方から太陽光が入ります。
滅多にこんな土地は見つかりません。
私がシュミレーションした月平均の発電量を2月の発電で上まわりました。計画よりも早くの償却は間違い無いかと思います。
この土地に太陽光発電するのに色々な苦労もありましたが、この発電量を見て報われた気がしますし何よりも宮川さまに喜んでいただいており、もっと頑張らなくてはという気持ちにさせて頂きました。
当社を選んで頂き中野を信じて頂き、そして貴重な人生勉強もさせて頂きこんなに悦びを頂ける方々とは、そうそう巡り会えません。
まさに太陽光発電がくれた大切な出会いだと思います。
「生きていく中で一番大事にしないといけないもの」って何だろう。未熟な私なんかはその答を教えて
頂いたような気がします。
そしてこの宮川家の方々は、『本当に大事にしないといけないものは何か』を、決して揺るがない深い処にドンと持っておられるように感じます。
最後にお母さま、宮川 美智子様が2002年に日本クリスチャンペンクラブ あかし新書から出版された『大いなる出会い』に投稿された文章を是非皆様にご紹介させて頂き、少しでも何かのキッカケにして頂きたいと思いますので、次回にご紹介させて頂きます。
それでは今回はこれで失礼させて頂きます。
エネルギー問題への考え方と太陽光発電がくれた大切な出会い part1
和歌山県橋本市の三方からお日様が射すこの土地で太陽光発電をご導入頂いた、京都在住の御年86歳になるお母さまと次男さまが計画された素敵な太陽光発電のお話をさせて頂きます。
いつもお母さまはご自宅にお伺いすると、必ずおいしいコーヒーとお菓子、そして時間も忘れるほどの素敵なお話しをたくさん聞かせてくださり、とても楽しくお仕事をさせてくださいます。
そんなお母さまが、なぜ和歌山県で太陽光発電をご導入頂いたかをお話しするにあたり、まずはこのお母さまの経歴や考え方、生き様を紹介いたします。
お母さまは神戸の貿易商の次女として育ち、神戸女子大学卒業後、聖和女学院宗教教育科を卒業され関西学院大学神学部3回生に編入、ドイツ語とまだその当時教科書もなかったギリシャ語に堪能でおられたようです。
その当時は「牧師になりたい!」と強い希望を持たれておられましたが、北海道旭川で開拓伝道に行かれていた宮川経裕様と出会い嫁がれました。
ご自分が牧師になることよりも、北海道で苦闘されている宮川牧師のお力になることを選ばれたのです。
ちなみにお母さまのご実家は神仏の前では最敬礼、毎朝仏壇の前で読経される父親の後ろにいつも座らされ、仏様に手を合わされるのが日課の日蓮宗でしたから、勿論父親は神戸女学校に入学することも反対、牧師になる事も反対、そして北海道のまだ見ぬ牧師に嫁ぐなど以ての他な環境をすべてはねのけ一緒になられました。
こうしてお母さまの旭川生活が始まります。
翌年、ご長男を出産されますが、生まれてきても泣けず胎便も出せない、先天性心臓疾患があることがわかりました。更に幽門麻痺もあり、お乳もすぐ吐き「手術をしなくては命が危ない!」とお医者様から告げられたのです。
しかしこの当時、日本では心臓手術が始まったばかりで北海道では手術することが出来ず、お医者様から内地に帰るよう勧めもあり、息子さまのため宮川牧師は辞任を決意され、内地である京都のご実家に戻られました。
戻った先の府立医大でも手術ができないと言われたそうですが、みなさんのご協力もありなんとか手術が行える東京の榊原先生に手術をして頂いたそうです。
手術後、榊原先生に「20歳まで生きれない」と告げられました。
ですがその息子さまこそ、前回ブログでご紹介させて頂いた日本基督教団大和郡山教会の牧師さまなのです!
(前回ブログ)30年3月16日発電スタート
話を戻しますが、その後宮川牧師は神戸の教会に赴任され、神戸の三畳一間に箪笥が置いてあるお部屋にご夫妻と、後にお生まれになった御長女と4人で過ごされます。
そのお部屋は、お子さまふたりとお母さまが寝ると宮川牧師の寝る場所が無くなるため、礼拝堂の裏の通路にふとんを敷いて毎日寝ておられました。
そこは「床下が見えて臭い風が出てくる・・・」と宮川牧師はよくおっしゃっていたそうです。
そんな生活が15年ほど続き、次男さまが誕生され、もうこれ以上は住めないと再度京都の御実家に戻られます。
その後子宝に恵まれ次男さまの後、次女、三女、四女と全員で6人のお子さまを授かったそうです。
宮川牧師は2時間以上をかけ神戸の教会に15年通われていたのですが、過労から体調を崩し辞任され、その15年後に京都の伏見教会に赴任する事となります。
ですが長女さまを除いて、お子様全て大病を患い、お一人次女さまは癌で亡くなられています。
次男さま含めた3人のお子様も酷い喘息で、特に次男さまは病院から学校に通われていたようでした。
その当時の病院代は、宮川牧師のお給料1か月分がそのまま病院の支払いに消え、生活は御祖母さまの年金のみで9人食べて行かなくてはならない状況。
大祖母さまがおられましたが、痴呆がおありになり介護がいる状態で貧困を極めておられたようです。
そして三女さまも血小板減少性紫斑病 白血病のようなもので、生きるか死ぬかの状況で生き残ってきたとおしゃっておられました。
次男さまの話によると「ある大雨の日、家もボロボロであちこち雨漏りがして、雷は怖いし部屋のあちこちで雨漏りの音がバチンバチンと鍋やらバケツをいっぱい置いても追いつかず、怖いのと悲しいのとでなんでこんなに貧乏なのかと悲しくて兄弟で泣き出したら、上の姉がオルガンで讃美歌を弾き出して兄弟で泣きながら讃美歌を歌っていた」とその当時の事を振り返っておっしゃっていました。
もともと宮川家は熊本バンド 宮川経輝氏の直系の子孫で、新島襄と同志社の創設や、プロテスタントを日本に宣教した有名な方です。
NHK連続テレビ小説『あさが来た』でおなじみの広岡浅子が、晩年プロテスタントに改宗された時にこの曾祖父様から洗礼を受けられています。
わたし自身はクリスチャンでもありませんしどちらかというと無宗教かもしれません。
神社仏閣にも手を合わせますし、ヨーロッパなんかに行くと教会にも行きますが、なんて中途半端な人間だと思います。
ですが、このお母様の生きかたやブレない思想、どんなに苦労をされてもご自身が選ばれた人生に対しての真摯な姿勢に胸を打たれました。
そしてこの思いや考え方こそが、この度の太陽光発電の導入に繋がっていると考えています。
話の続きは次回書かせて頂きますので、今回はこれで失礼させて頂きます。
寒い地方の太陽光発電
今年の1月、昨年11月に48Kwシステム設置頂いた京都左京区の山の中、市内も雪が降ったのでどのくらい積もったのか気になって行ってきました。
10センチ程積もってた!ご主人様が表でなにやら作業をされていました。
パネルの上の雪が溶けてなかったので(雪かきしましょうかって)いったら
『このぐらい明日には溶けるから大丈夫や』とご主人様。
『だけど雪がつもったら発電せえへんな』と、たしかに。
『そやけど、雪さえ積もらんかったらどんな曇ってても発電してるな』と
それも、たしかに!
パナのHITを設置頂いているのでと心の中で、だけど『ここはやっぱり環境悪いわもっと市内に近かったら全然違うのに』と、私又心の中で(寒くなる所からのスタートなので良い時をまだ経験されていないしなあ)と、特に今年の冬は特別天気が悪い!(お願いこれ以上雪よ積もるな)と心の中で思っておりました。
すると又、施主様『やっぱり太陽光発電はもっと環境のええ所やないとあかんあ』と
確かに、太陽光発電は冬は寒い所や雪の降る所は、そうではない環境の所と比べると発電量は落ちるのは間違いないようです。
では夏はどうでしょうか、とても日当たりの良い環境で夏って良く発電すると思いますか?
いえいえ、逆に涼しい地域の方が発電する事が多くあるのです。
太陽パネルはある一定の温度上昇があると逆に発電量が下がってしまいます。
これを熱損失と言いますが、夏の場合日射強度が強い地域は逆に発電量を損失する事になってしまいます。
冬寒い地域の方が夏の発電量が年中で一番良いとされている4月5月と同じくらい発電する事があります。
それと、一般的に日当たりの良い住みやすい環境の所は、建築物も密接していたり家の大きさ、土地などもこじんまりしていたりしますので設置システムもあまりたくさん設置できなかったりします。
逆に、少し山の中で環境がイマイチかなという所は、お家もわりと大きいので屋根も大きく、敷地面積もありお隣との距離もあり、枚数も沢山設置できる条件の方が多くおられますし、ピークカットがあまりないので多少の過積載ができたりとそうすると、設置費用も割安になってくるというメリットもあります。
長い目でみれば環境の良い所で少しのシステムしか設置できなくても、少しぐらい環境が悪くても、結果的にたくさん設置できて長期的に断然お得となる場合も少なくありません。
どんな条件であってもメリット、デメリットは必ず双方にあるといえます。
ごはんおくだ 右京区山ノ内御堂町
右京区山ノ内御堂町にある西本願寺角坊別院のすぐそばにあります。
久しぶりにお弁当を買わせて頂きました。
とにかく安くて美味しい!ワンコインで手作りの惣菜定食が食べれるお店。
勿論お持ち帰りもOK!
11時過ぎからお客様がひっきりなし、ピーク時はいつもいっぱいで表で待っておられるお客様。到着したのはちょうど12時、表に人がいっぱい待っていました。
電話で頼んでおいて良かった!やっぱりいっぱいだ!
オーナーの奥田昌代様とそのお母様とお父様、そして去年からオーナーのお嬢様も加わってご家族4名様でお店を運営されています。
2013年にエコキュートと太陽光を設置頂きました。
お2階が住まいでもともとIHをご使用でした。
お伺いした時ガスの料金を見てびっくり仰天でした。
いくらごはん屋さんでもこの料金はあ・・・・・・
どうもお父様が厨房で洗い物をする時にお湯をずっと出しっぱなしとか・・・
エコキュートの案内をしてガスのお湯周りのエネルギー代とエコキュートのエネルギー代の比較が半端なかったんです。
只、お店をしておられるので太陽光設置は必須でお願いしました。
そして翌年店舗の厨房をすべて電化にされました。
お店を電化に変えようと思われたきっかけが夏の厨房の暑さでした。
私は、それまでに右京区にでかけると度々ごはんおくだでお昼を頂いておりました。(すごく美味しくてお安いので)
お父様、お母様とも親しくお話をさせて頂いておりました。
ふとおっしゃたのがこの頃体力がなくなってきて又、暑い夏が来るとこの厨房の中が地獄の様になると、そして最近調子が良くないとか。
いつまでできるかなぁ~とおしゃられて・・・・ふと、その時私は変なこと思ってしまいました。
(え、お父様の作った粕汁にカレーが食べれなくなるのは嫌だな)
ごめんなさい。でも、本当にお父様とお母様にできるだけ長いことこのお仕事を続けて頂きたいと心から思いました。
そしたら、私の口から出てきた言葉が、「厨房も全部IHに換えましょうよ。夏、全然暑くないですよ! 火を燃やさないので水蒸気がでないのでお身体絶対楽になりますよ」がきっかけでした。
久しぶりに最近寄らせて頂いてお元気そうにしておられるの拝見して良かった。
本当に良心的なお商売をされていてどれも美味しくて、ホントにホントにごはんおくだがいつまでも続きますように!
30年3月16日発電スタート
日本キリスト教団 大和郡山教会様
太陽光発電と蓄電池工事完了し、本日めでたく連携致しました。
関西地区では教会様で初めて設置頂くのではないかと思います。
工事スタートから宮川先生が大変嬉しそうにして頂いており、何か私もとても嬉しくて幸せな気持ちでいっぱいになりました。
そして、緊急時の避難所に認定されました。
災害時、乳飲み子や小さいお子様がいらっしゃるご家庭様など、わずかな時間でも停電すると大変困る方がおられます。
地域の役にもたてればと言って頂いております。
牧師様の宮川様は熊本バンドで有名な宣教師 宮川 経輝 様の直径のご子孫です。環境問題にも積極的に取り組まれていたり、いつも色々な事を頼まれ走り回っておられます。
奉仕精神に溢れた方です。とても勉強になり頭が下がります。
宮川先生、役員の皆様、信者様、環境問題に本当に興味を持って頂き私のつたない話を真剣に聞いてくださいました。そして大変貢献頂く事となりました。
心から感謝致します。
発電スタートおめでとうございます。
今後共、宜しくお願い致します。
とても嬉しく、光栄に感じた日でした。
ブラボー大和郡山教会の皆様!
京都の太陽光発電
先日お客様の処でこんな会話がありました。
『京都の太陽光発電ってどうなんでしょう? 全国で見ると平均日照量低い方ですよね?太陽光発電って今はもっと環境のいい所でないと難しいんじゃないの』と・・・
確かに京都は47都道府県中32位、20年間の平均で1778.9
ちなみに1位は山梨県の2213.9、最下位の47位は秋田県の1489.5となります。
1位と比べると435、真ん中の関東1946では167.1の差があります。
例えば4kwのシステムを屋根に設置したとして関東と京都の差は167.1なので、
年間どのくらいの発電量が違うのか計算すると、多くて年間470kw、売電額で1kw26円として12,220円、20年間で244,400円の差
一位の山梨で年間1700Kw売電額45,240円、20年で904,800円の差がでるようです。これで見ると京都は太陽光発電に向いていないと判断される方がおられます。
甲府市で4kwのシステムと蓄電池を設置し費用が240万かかったとします。
発電量が年間16万円20年で320万円の効果があるとします。
元がとれるのが15年。
京都市で年間14万円20年で280万円 元が取れるのが16年
単純にみると甲府市が良いのは明らかなような数字となります。
ですが、ちょっと待って下さい!
そんな単純に判断して良いのでしょうか?
まず、どこの市町村にも景観条例というものがあると思いますが、特に高さに非常に厳しい規制があるのは京都以外にはあまりありません。
という事は太陽光を設置頂いても今後何十年と環境が変わらないと言えると思います。
当初の計画がそのまま継続されるという安心感があります。
どんな環境に恵まれたところでも、隣に高いマンションを建てられてしまっては当初の発電計画が大きく変わってしまう事もありえます。
それに京都でも2,000を超える日照量の環境もあれば1,500ぐらいの環境のところも存在します。甲府市だからと言ってすべてのところが2,000を超えているわけではないのです。
それと京都府は他府県に比べ助成補助が充実しています。
これが非常に大きく影響します。
山梨県自体には補助はなく、市町村によってはないところもたくさんあります。
あってもMAX10万前後、京都府は市町村によりますがMAX80万円の補助がでます。京都府さん、京都市さん、本当に頑張っておられます。
ちなみに資本金が1億円以下の事業所は費用の1/3が補助される事もあります。
個人事業主でもOKです。
最下位の秋田県も市町村により違いますが、補助金額は京都に比べると非常に少ないといえます。
どうでしょうか?
家庭用の太陽光発電、事業用の太陽光発電、京都でお住いの方、他府県の方と比べるととてもお得だと言えるのではと思います。
只、この補助金制度がいつまで続くかはわかりませんが。
詳しい事をお知りになりたい方はなんでもお問い合わせ下さい。
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