宮川美智子様のご紹介 ~日本クリスチャンペンクラブあかし新書から出版『大いなる出会い』への投稿文~

宮川美智子様のご紹介

 

前回の最後に書かせて頂きました、宮川美智子様が2002年に日本クリスチャンペンクラブあかし新書から出版された『大いなる出会い』に投稿された文章を宮川美智子様からご承諾頂いたうえで、皆様にご紹介させて頂きます。

 

~主たる神との出会い~

宮川 美智子

 

幼い頃の私は、毎朝仏壇の前で読経をする父の後ろに座らされ、仏様に手を合わせるのが日課であった。父は神戸で貿易商を営んでいたので、家内安全、特に商売繁盛を祈っていた。台所には火の神のお札があり、神社の前では最敬礼をし、神仏混淆しているのに、父はお寺を殊の外大切に思う仏教信者であった。そんな訳で、自分の家から耶蘇教信者が出るという事は恥であると思っていた。

私はこのような父のもとで育った。近所の人が教会の日曜学校誘ってくれても、行かせてもらえず、その代わりにお寺に行かされた。私はお寺の日曜学校で見た地獄絵の恐ろしかった事を、今でも忘れることができない。子供心に二度とこんな絵を見たくないと思った。けれども父の信仰については、何の疑問も持たなかった。

中学への進学を迎えた頃、神戸女学院出身者の母方の叔母が、ぜひ神戸女学院に進学させるよう母に勧めた。当時、叔母は満州に住んでいたのだが、満州に迄願書取りよせた上、手紙をつけて母に送ってきた。母は行かせたく思ったらしいが、父は「耶蘇教の学校になぞ行かなくていい」と反対した。

私は神戸女学院のあの美しいキャンパスに魅せられたが、私たちの小学校からはなかなか合格しないという。父はその話を聞いて、私が余りうるさく願うので、願書を出す事は許してくれた。

父の意には反したが、合格通知が届いた時は本当にうれしかった。

この神戸女学院に入学を許されたことが、私の「主なる神」との出会いの始まりとなったのである。

入学当時は、戦争中であり爆撃機が飛来した。門戸厄神まで阪急電車に乗る事も禁じられ、西宮北口より門戸迄の遠い道程を、毎日徒歩通学しなければならなかったが、中学生活は楽しかった。阪神間に大空襲があった時、同じ小学校から入学した友と二人で、線路伝いに阪神沿線の魚崎まで歩いて帰った。行く手を何度も炎で遮られ、爆弾でえぐられた穴にも落ちた。血を流し三角巾で傷をふさぐ怪我人、爆弾で死んだ牛や馬の死体の轉がる中を、どうして抜けてきたかわからず、ただ神戸方面を目指して、友達と手を握りしめて歩いて帰ってきた。神戸方面を見ると、一面煙と炎に包まれ、家は皆燃えているかのように見えた。しかし、私の家の前には大きな爆弾が落ちていたが、不発弾だった為、被害はなく、友達の家も幸い無事だった。ただ深江の軍需工場に動員されていた姉が帰ってこず、私達の心配は高まっていった。夜が更けてから、姉がよれよれの姿になって帰ってきた。山に逃げようとする学徒の群に、機関銃掃射がなされたのだ。多くの友が亡くなったが、姉はかろうじて山の中に逃げ込めたという。人が人を殺すという事は、決してあったはならないと強く思った。一年後に終戦を迎えた。

 

女学院での生活は、喜びに満ちていた。だが、毎朝の礼拝、聖書の時間に学ぶ神は、父から聞いていた神や仏ではなかった。全宇宙を造り司る創造主なる神であった。又その神は、愛なるが故に独り子イエスをこの世に降ろし給うて、全人類の救済をなし給うた事を知ったのである。父は「私の信じる仏の道こそが真だ」といい、聖書では、イエスが「私は道なり、真なり」いわれる。いったい何が真なのか。そして私は何を信じればいいのかわからなくなり、これを求めていく事が私の課題となった。この課題は、他に頼って解ける事ではなく、私自身が探し求めていかなくてはならない課題であった。学校から勧められる儘に、教会にも出席した。しかし神学ばかり説かれる教会であったり、グループ活動のような集いであったり、私の求めている真の信仰、聖霊の働き給う教会とは違うように思えた。

 

私は教会に行くのを止めて、手あたり次第に、本を読み漁った。しかし何も分からなかった。

やがて高校に進み、青年期の反抗とも重なって、毎日のように父と激しく議論するようになった。二人の信仰は噛み合わず、私自身も信仰の確信は持てずにいた。次第に私は生きる目的が分からなくなり、何が心理なのかも分からなかった。それさえわかれば、何もかもが明るくなるだろうにと思えた。聖書の言葉を、その儘「はい」と信じられない自分がいた。トマス以上に疑い深い私がいた。そして私は生きる目的が分からなければ、結婚もできないと思った。何故なら、自分がこの世に生きている意味が不明なのに、どうして子供に生きる目的と意味と喜びを伝える事ができるだろうかと考えたからである。求道の日は続いた。

そんなある日、私は開拓伝道途上にある芦屋浜教会の聖日礼拝に誘われた。そこは、打出の浜辺にある一軒の信者のお宅の応接室であった。婦人牧師の長谷川初音先生が説教され、十名程の人たちが集まっていた。今まで訪れた教会とは全く違った雰囲気があった。言葉に表せない光を感じた。後にマザー・テレサの「死を待つ人のホーム」には窓がないのに、奉仕する人たちの祈りと愛の行為で柔らかい光が射していると聞いたことがあるが、多分それも上よりの光が射していたのであろう。私は魅きつけられるように、芦屋浜京j会の礼拝に出席した。聖書の言葉が、信者の方々の日々の生活に生きて働いているのを感じた。神学ではなく、愛によって働く信仰を感じさせられた。私は会堂の上に立つ十字架から絶えず呼ばれているように感じ、飢えて渇いた魂に、御言葉が沁み通ってきた。私の心は詩篇の作者ダビデと同じ思いであった。

 

詩篇一三九篇

「主よ、あなたはわたしを探り、

わたしをしりつくされました。

………

わたしはどこへ行って、

あなたのみたまを離れましょうか。

 

わたしはどこへ行って、

あなたのみ前をのがれましょうか。」

 

私は、いつも十字架上の主から、じっと見つめられているようだった。何処に行っても何処に隠れても、主の眼を感じた。私は生き給う神の眼を恐れた。

教会には足繁く通った。ある早天祈祷会の時、一人の姉妹が「川鉄の土地を教会にわけて頂けますように」と祈られた。私は、はっとした。川鉄は私の親友の父上が専務として在職しておられ、秘書課には友人が勤務している。その方達に頼めば簡単に分けて貰えるのではないか。私がこの教会に導かれたのは、この御用があった為ではないかと思い始めた。そしてこの為に真剣に祈った。事はそう簡単には運ばなかったが、不思議な神の導きという他ない偶然が重なり、遂に祈りは聞かれた。川鉄の土地は教会の土地となり、現在の芦屋浜教会が建っている。私は主がこの小さき者を用いて、主の教会建設の御用の一端をさせて下さったことに、大いに感激した。そして益々、神が生きて現在に働き給うという事を実感させられたのである。

二十歳の時、初音牧師より受洗。献身者奨励礼拝の説教を聞いて献身を決意し、神学校へ進むことを願った。しかし父は反対した。その頃、大阪教会に通っていた女学院時代の友人が、私に看護師になろうと勧めた。自分も行くから一緒に行こうという。阪大の看護学校に入学できれば、寮生活だし生活費も支給してくれるという。私は父から神学校進学に反対され、教会に行くことも良い顔をされなかったので、信仰の自由と経済的独立ができればと乗り気になった。看護婦という仕事を通して、主に仕えることができれば幸せではないか。そうすれば、「この道の他に行く道なし」と信じた主への信仰を貫く事ができる。

私は早速、女学院の担任だった先生のお宅に内申書をお願いに行った。しかし折り悪しく先生はお留守で、わ宅で待たせて頂いていたが夜遅く帰ってこられた。先生のお宅には、当時電話はなく、交通の便も悪かった。余り遅くなったので「泊って行きなさい」と言われる儘に、何の考えもなしに泊めて頂いた。

翌朝五時頃、先生の家のベルが鳴り、私の母が訪ねてきた。一晩中歩いて探していたそうだ。私が無事にいるのをみて涙を流した。この時程、母の愛の凄さを感じた事はなかった。先生のお宅を知らなかったのに、よく探しあてられたものだと感心した。

私の家では、今迄連絡なしに外泊する事など一度もした事のない娘が、電話もかけずに帰宅しないので、両親は心配の余り一睡もしなかったようだ。母は、父が余りに頑固に私の行きたい道に反対したから家出したのだと、激しく父を非難したらしい。

家に帰って両親に謝った。どんなに叱られるかと思っていたのに、父は何も言わなかった。そして一言、「お和えの好きなようにしなさい。学費は出してあげるから心配せずに」と言ってくれた。私は父に盾ついて家出しようとしたのではなく、たまたま先生が留守だった事、電話がなく交通の便がなかった事などが重なって、家出したと思わせてしまったのであったが、この事件は結果的に良い方向へと導かれたのであった。

私は聖和の宗教教育科に進み、教会にも父に遠慮しないで行けるようになった。自宅でも応接室を占領し、近所の子供達を集めて教会学校を開く事さえ許してくれた。ソファーはぼろぼろになったが、父は黙っていた。この教会学校に来ていた子供達の事は忘れられない。成長した隣家の少年は、その後近くの教会に通い信者となっている。また両親がなく、朝夕新聞配達をしていた兄弟が来ていたが、中学生の兄はよく私に反抗した。その時の事を詠んだ歌がある。

 

三角の目を光らせてことごとく
反抗する子の肩を抱きおり

 

聖和を卒業して、関西学院大学神学部に三回生に編入。一年間ドイツ語に悩まされて漸く修了した頃、かつて女学院で英語の教師をしておられた宮川とも先生の一人息子、恒裕と結婚話が持ち上がった。私は関西学院大学で漸く一年を終えたばかりで、いずれ大学院へも進む積もりでいたので、中退して結婚するなど考えられなかった。しかし、「貴女が牧師になるのと、いま開拓伝道で単身苦闘している牧師を助けるのとでは、どちらが主の聖旨に叶うでしょうか」と、宮川とも先生に問いかけられた時、私は自分の能力を省み、何のとりえもなく、能力もない者が、牧師になる為に大学院へ進むより、苦闘している牧師の助け手として実践の場に出た方がいいのではないかと思うようになった。一九五八(昭三十三)年五月、恒裕と結婚して旭川に発った。

 

旭川では、既に恒裕が一年前より開拓伝道に遣わされ、募金を募り、旭川市郊外の春光町の旧屯田兵の家を購入、旭川星光伝道所を開き礼拝を守っていた。近所の子供達は、沢山来てくれたが、大人の礼拝出席者はなく淋しかった。翌年に長男が生まれたが、生まれてきても泣けず、胎便も出せない弱い子で、先天性心臓疾患のある事が分かった。幽門痙攣もあり、お乳もすぐに吐いてしまった。手術をしなくては命が危ないと言われたが、当時日本では心臓手術が出来なかったので、私達の頭の上には黒雲がたえず重くのしかかっていた。又、神戸育ちの私には気候が合わず、腰痛、神経痛、ヘルペス等に悩まされ、息子と二人して毎日のように病院通いをしなくてはならなかった。一九五九(昭三十四)年十二月、宮川は辞任を決意し、あとを七戸牧師に託して、私達は一時京都の宮川の母の家に住まわせてもらう事になった。母は姑を看病していたが、私達が旭川を発つ前日に姑を天に送り、告別式もすべて終えたところに私達が帰ってきたのであった。母は、自分の長男を三歳の可愛い盛りに天に送ったので、初孫をとても愛して下さった。この母とともに暮らす事によって、私は主の愛の深さ、高さ、清らかさを教えられた。主に在る母は、姑という言葉からくるイメージとは全く異なり、私の良き模範であり、指導者であり、相談相手であった。家庭が主によって一つとされる事の喜びを、この母によって味わされ、実の母より慕わしかった。家族が共に主に祈れること、これ以上のない幸せはないと教えられた。次々と与えられた子供達が、又次々と難しい病気になり生死を危ぶまれた時にも、いつも母が共に祈り支えて下さった。二十歳までは生きられないと言われていた長男も、不思議な神のお導きの中に、心臓手術に成功。今年四十三歳を迎えて、教会の御用に仕えている。

京都に帰ってきてから半年後に、私達は神戸にある教会に赴任した。伝統ある教会だったが牧師館がなく、三帖一間があるだけだった。その部屋に私と長男、やがて神戸で生まれた長女の三人が寝る事とし、夫は土足で歩いていた会堂裏の廊下に寝る有様だった。私の父が見かねて畳を寄贈してくれ、台所や廊下に畳を敷き、少し家らしくなった。けれど、トイレは庭のはるか向こうに公衆便所のような作りになっていて、夜中でもそこ迄歩いて行かなくてはならなかった。三人目の子供が生まれる時には、もう寝る場所がないので京都から通う事として母の家に移ったが、その後次々と子供が与えられ、六人となった。牧師館建設の話が出ても、多人数の牧師家庭の住める牧師館を建てる余裕はないと言われた。この言葉を聞いて、牧師館を建てる為には、少人数の家族の牧師がこられて、牧会をされた方がこの教会の為に益になるのではないかと私は考えるようになった。その頃夫は、腎臓が弱っているので休息が必要であると医師より言われていたが、その矢先、神戸の教会からの帰途、激しい腹痛でJR神戸駅で動けなくなった。医師の診察によると鼠蹊ヘルニアで、早く手術しなくてはならないという。そうすれば、暫く教会には通えなくなる。私は、六人目の娘が生まれて一年と少し経ったところなので、私も教会に出席できない。僕新館が建てられず、私達も教会に出席できないなら、辞任して早く良い先生にきて頂いた方が良いとの思いに至り、私が辞任を提案した。そして一九七五(昭五十)年七月、神戸の教会を辞任した。十五年間在職していたが、頂いた退職金が、当時の謝儀一カ月分の八万円であった。これでは、一カ月間は生活できてもあとが続かない。夫がとにかく健康をとり戻す迄は、私が働こうと決意した。しかし、四十歳を過ぎている上に、病気の夫と六人の子供を持つ主婦を何処も雇ってはくれなかった。問い合わせの電話の段階で、すべて断られたのである。

 

当時京都教区事務所におられた谷山牧師が、夫を見舞いに来て下さり、「これから先、どうして生活していかれるのですか?」と、とても心配して下さった。「今、職を探していますが、断られるばかりです。家政婦か病院の付添婦ならあるようなので、そちらに聞いてみようと思っています」と答えた。谷山牧師は、「家に病人と子供がいる上に、馴れない労働をすれば貴女の体がもちませんよ。伏見教会で萩原牧師が公文式の塾を開いておられますから、紹介しましょう」と言って下さった。私はすぐに伏見教会をお訪ねした。萩原牧師は、親切に公文式の事を教えて下さり、温かくもてなして下さったが、私には数学を指導し教えるという自信はなかった。とても無理な事のように思いつつ帰ってきた。

だが翌朝、新聞を見て驚いた。今迄公文式という言葉さえ知らず昨日伺ったばかりであったのに、朝日新聞の朝刊広告欄に、「公文式指導者募集」と大きな広告が出ているではないか。私には到底無理と思って帰ってきた翌日に、このような広告が出たという事は、主が私にこの道を進みなさいといわれているのかも知れないと思わせられた。説明会に出て心構えのないままテストを受けたが、合格通知を頂いた時は嬉しかった。私には一家の生活がかかっているので、一日でも早く教室を開く事ができるようにと研修に励んだ。やがて近所の人達、子供の友人の親達が応援して下さったので、生徒がどんどん増え、庭に教室を建てなくてはならない程の盛況となった。人は捨てても主は見捨てられない。職を断れ続けた事はむしろ幸せであった。

 

そんな中で母が寝たきりとなり、介護が必要となった。この時、喘息で長い間病む者の苦しみを味わってきた高校生の次男が、寝付いた母を病院に入れず、自宅で看病しようと言ってくれた。彼は学校の昼休みには自宅に帰って来て下の世話をするなど、最期まで母の看病に尽くしてくれ、どんなに母も喜び、又私も助けられた事か。末娘が大学に進む迄は僕kも大学には行かないと、私の教室の助手として働き、生計を支えてもくれた。そして末娘が同志社大学神学部に入学すると同時に、自分も関西大学神学部に入学し、今は牧師としての道を歩み始めている。夫は健康をとり戻し、無牧の教会や老人ホームの聖研、礼拝の御奉仕に仕えていたが、萩原牧師が天に召された後、伏見教会に招かれ、牧師として就任し現在に至っている。

六人の子供達は皆受洗の恵みに与かり、三人は主の御用に仕えている。困難な中に途方にくれる時に、主は必ず道を備え祈りに応えて下さった。

 

私は今から六年前に子宮癌のため、子宮も卵巣も総て摘出したが、昨年の秋、癌が再発。腹膜に癌が点在し、抗がん剤が効かない場合は余命一年、と主治医が長女と末娘に告げられた。末娘とは常に死について話し合っていたので、私にその事をすべて話してくれた。再発の場合は抗癌剤が効かない事が多いという。

 

一年の命と聞いて詠んだ短歌がある。

 

末の娘にわれの余命を告げましし

若き主治医にわれは感謝す

 

一年の命と聞いても驚かず

ゆだねるという心の安らぎ

 

秋の葉のこぼるるごとくわれもまた

こぼれて土の塵に帰らん

 

不思議な事に、効かないと言われていた抗癌剤が効き、医師に「滅多にない事だ」と言われて、この二月に退院。

 

癌マーカーの数値正常に下がりきて

主のみ癒しの恵みと知れり

 

二〇〇二年三月三十日、復活節礼拝に出席が許され、「真に主は活き給う、ハレルヤ」と、教会員と共に主を高らかに賛美し、心から祈りを捧げたのであった。